2011年9月3日土曜日

頑張る ー あるいは絶対と相対

3月11日の悲惨な災害から半年。

色々な場面で「頑張れ」という言葉が使われている。頻繁に耳にし、皆が使っているので「頑張る」ことの意味を理解しているように錯覚している事に気づいた。

「東北頑張れ!」というキャッチフレーズがあちこちに見受けられる。これを僕なりに解釈して見ると「東北地方で災害に遭われた方、色々大変でしょうが、そのうち良いことが有りますよ。それまで気落ちしないでいて下さい。」というようなことになるのだろうか。

このような発信をしている人たちは勿論善意で言っているし、言ったことで何か貢献したような気になっているのだろう。

先日NHKニュースを見ていたら「頑張れ、と言われることが一番辛い。何をどう頑張れというのか。」というおじいさんがいた。

善意で言っている人たちと受け手との大きなギャップ。善意で言っているだけに始末が悪い。言っている人たちはもしかしたら大きな思い違いをしているのではないだろうか?
受け手の人の立場になって考えてみたら、もう少し違った表現になるかもしれない。

話は少し飛ぶが、絶対と相対ということについて考えてみたい。数学の始めのころ、ゼロを基準にして色々なものを説明すると分かりやすくなるということを習った。自分のお金が+ならば使えるお金があるということだし、ーであれば借金をしていることになる。摂氏ゼロは水が凍り始める(あるいは氷が溶け始める)温度。

相対というのはA点からB点までの距離。どのくらい隔たっているかを表す。

いま、日本では相対が幅を効かせ、絶対は隅で小さくなっているような気がする。

「頑張れ」というのは残りあと何キロだからとか、何分だからとかという基準があって初めて効果を表す。

「皆頑張っているんだからあなたも頑張りなさい」といわれると違和感を感じるのは僕だけだろうか。




3 件のコメント:

サイクルおじさん さんのコメント...

まったく同感です。
私の妻はうつで、不安・強迫障害を持っており、どうしても「がんばって」しまいます。私もそれなりに気をつけているつもりですが、気が付くとつい「がんばらせて」しまっています。
人のことを思いやろうとするとき、本当に大事なことは「自分が善意かどうか」ではなく、「その人がどんな思いなのかということに、いかに想像力を働かせるか」ということなんですよね。まあ、まさにそれこそが難しいことなのですけれど・・・
おっしゃるとおり、日本の道徳などの価値基準は相対的な「人の目」であって、絶対的な「神の心(良心)」ではないように思います。そして聖書による神の心は、どんな人も大切にするという絶対的な価値観に基づいて、具体的には相対的にその人その人の状況に応じて物事を判断することだと思います。
「がんばれ」「それでいいんだよ」「切り替えて次に行こう」「いい経験したね」「ありがとう」・・・その人の状況に応じて、上手く使い分けていきたいですね。

サイクルおじさん さんのコメント...

まったく同感です。
私の妻は、うつで不安・強迫障害を持っており、どうしても「がんばって」しまいます。私もそれなりに気をつけているつもりですが、気付くとつい「がんばらせて」しまっています。
人のことを思いやろうとするとき、大事なことは「自分が善意かどうか」ではなく、「その人がどんな思いかにいかに想像力を働かせるか」ということなんですよね。まあ、それがまさに難しいことなのではありますけれど・・・
おっしゃるとおり、日本人の道徳などの価値基準は、一般的に相対的な「人の目」であって、絶対的な「良心(神の心)」ではないようですね。聖書による神の心は、どんな人も同じように大切にすると言う絶対的な価値基準を、具体的にはその人その人の相対的な事情に応じて対応するということだと思います。
やる気のある人、めげている人、目標を見失っている人、つかれきっている人・・・など、それぞれの事情に合わせて「がんばれ」「よくやったね」「それでいいんだよ」「次に向けて切り替えよう」「ありがとう」・・・などと、上手に使い分けていきたいですね。

Unknown さんのコメント...

サイクルおじさん

いつもコメントありがとうございます。

神様の目からしたら人間ひとりひとりの差なんて殆ど無いのに等しい、いや全くないのですよね。
でも人間は拡大鏡や場合によっては顕微鏡を持ち出してきて「相対」的な差を探そうとする…。そして自分の位置を確認して安心したりがっかりしたりしているのです。